私は、「羨ましいな」という感情を抱くことが多い。
今の時代はSNSなども流行していて、容易に自分と他人を比べられる時代だ。
有名人は良いな。地位が高い人はいいな。金持ちはいいな。
自分もこうなりたい。
そんな思いが出てくることがある。
私には「自分は本気を出せば何でもできる」というような、過剰に大きな自己愛があるようなので、そのような感情を抱きやすいのだと思う。
さらに、この私の「羨ましさ」というのが病的で、相手のことをライバルどころか敵と思ってしまうこともある。
あいつより有名になってやる、あいつより金持ちになってやる。
これは、まさに自己愛性パーソナリティ障害と私の持っている加虐性の影響なのだろう。
恐ろしいことである。
話は変わるが、芸能人の不祥事で、声を荒げ、「二度とテレビに出すな」という人は、
普段贅沢なことをしていた芸能人に対する、
- 羨ましさ
- 敵視
- 加虐性
こんなものを持っているのだと思う。
バッシングというのはこれらが凝集されたものではないだろうか。
私も似たような気持ちになることがあるから、気持ちがよくわかる。
話を戻して、「羨ましい」という感情について考えてみたい。
「羨ましい」というのは、失礼じゃないかと気付いた。
すごく失礼だと思う。
自分に対して。
なぜ、自分のことを、肯定できないのか。
なぜ、他人の方ばかり見てしまうのか。
自分は自分の味方でなければならないと思う。
味方でいるためには、自分の弱みではなく、強みに着目するといいと思っている。
友達がいない、ではなくて、○○さんと仲がいいという事実を大切にする。
お金がない、ではなくて、今はいくら貯金があるという事実を大切にする。
カリスマホスト(?)のROLANDは、若いときに、先輩から「使えない後輩」と揶揄されて、こう答えたそうである。
「使いこなせないの間違いじゃないですか?」
自分の存在を否定されそうなとき、誰かが羨ましいと思ったとき、自分が自分の味方でいることは、心の平穏を保つうえですごく大事なことだと思う。
自分のことを応援できる人になりたい。