「治療を継続する動機はなんですか?」と聞かれることがある。
今日はその質問に回答する形式でブログを書いていきたい。
はっきりいうと、性依存症の人にとって治療は短期的には損なのだ。依存症の人にとっては、問題行動は最大の「快」であり、「得」なのである。かりに、性犯罪の行為依存で未治療のひとに、「問題行動をやっても逮捕されない環境だったらどうする?」と聞いたら、「問題行動をやりまくる」と返ってくるだろう。(実際にアダルトビデオでそういう内容のものがある。時間が止まってしまったら女性にセクハラし放題とか。)
下の図を見て欲しい。現実世界では問題行動を起こすと④のように逮捕されたり、人間関係トラブルに見舞われたりするが、それは明らかに幸せではない。②の問題行動は幸せなんだけれど許されない。だから、③の問題行動を我慢している状態に甘んじるのだ。実際には②~④の中で許される幸せなところが、③だということである。
しかし、それでは視野が狭い。
生きがいはなんのか?生きている意味はあるのか?
治療を進めていくと、セックスや性犯罪などで自分の人生が振り回されていることに虚しさを抱く。問題行動の「快」以上に、「快」があるんじゃないかと勘づく。問題行動の「快」以上の「快」とは自己実現だ。
自己実現について考えると、それだけで一つの哲学となってしまう。ここでは、自分の人生の生きている意味を見つけ、充実感のある毎日を送ることとしたい。好きな人と好きな時間を過ごしたり、他者に貢献することで感謝されたりなどだ。人生における最大の幸せといっても過言ではないだろう。
その、人生の最大の幸せに目を向けると、問題行動はそれほど魅力的ではない。
「治療を継続する動機はなんですか?」という質問の回答は、依存症うんぬん、逮捕うんぬんではない。「自己実現したい、そして幸せになりたいから」だ。
私の場合の自己実現・幸せの定義を紹介すると以下のようになる。
- 専門的な知識を生かして社会に貢献したい。
- 彼女と一緒に実現したいことをひとつずつ実現できるような生活を送りたい。
- 母親を含め、家族を大切にしていきたい。
依存症治療というのは、問題行動をやめるためと思っているとうまくいかない気がしている。問題行動のことを考えているということは、問題行動で頭がいっぱいということだ。問題行動が最大の「快」なのだ。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、やめたいと思っていることはやりたいと思っていることなのだ。「チョコ食べるのを我慢しているんです」という人はチョコが食べたいのだ。
「問題行動なんてばからしいよね。その先の幸せをみているよ。」といえるぐらいの方が、治療を継続する動機としてはいいと思う。
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