「どこからが依存症なんですか?」
と質問されることが多いです。
今日は、どこまでが健全な依存で、どこからが依存症なのかという問題について考えてみます。
ギャンブル依存症の場合
依存と依存症の違いをギャンブル依存症を例に出して説明してみます。
勝っているときは、「勝てるからやる」
これは、分かります。論理的といってもいいと思います。
しかし、依存症になってしまうと、負けているときに「負けるからやめる」とはならないんですね。
「負けた分をとりかえす」とか「とりかえしたらやめる」とか、そういう発言になってしまうことが多いです。非論理的な言い分です。
「あなたはなんでギャンブルをやるんですか?」という問いに対して、論理的に、つまりみんなが容易に理解できる形で解答を述べることができれば、それは依存症ではないです。
一方で、非論理的な弁明しかすることができなければ、つまり矛盾などをはらんでいれば、それは依存症と言っていいでしょう。
アルコール依存症の場合
アルコール依存症でも同じです。
はじめのうちは、快楽を得るために飲酒しますが(脳内報酬系が担う正の強化)、
次第に飲まないと不快な気持ちが強くなり、その不快感から逃れるために飲酒するようになります(偏桃体が担う負の強化)。
つまり、「おいしいから飲んでいる」という状況ではなくなってきて、「不安から逃れるために飲んでいる」という状況になってきます。
しかし、本人は不安から逃れるために飲んでいるという風に自覚できることは少なくて、
- 「嬉しいことがあったからお祝いで飲んでいる」
- 「嫌なことがあったから忘れるために飲んでいる」
- 「特別な気分を味わいたいから飲んでいる」
などと理由を捏造して飲むようになります。
余談 大脳新皮質が理由を捏造している
余談ですが、脳科学的にいうと、大脳辺縁系(古くからある脳で、欲望をつかさどる)で飲酒欲求が出ていて飲酒するわけなのですが、その行動に理由付けしているのが大脳新皮質(新しい脳で、理性をつかさどる)です。
古くからある脳が欲望を出して、新しくできた大脳新皮質が理性で押さえつけています。
ちょうど、車のアクセルとブレーキの関係です。
依存と依存症の違い
話を戻しますと、依存症になってしまうと、やりたい理由が論理的ではないですし、やりたい理由がコロコロ変わってしまいます。それは正の強化ではなく、負の強化だからです。そして負の強化になると、我々は行動に理由が必要になりますから、理由を捏造するようになります。
(依存症ではない)依存としてのギャンブルや飲酒は、正の強化だけですから論理的に説明できますし、やりたい理由が一貫しています。
依存と依存症の違いを考えるときは、
- 正の強化か負の強化か
- 論理的か非論理的か
- やる理由が一貫しているかコロコロ変わるか
- 理由を捏造しているか
このあたりがキーワードだと思います(下表)。
ちなみに、この負の強化というのはなかなか自覚しにくいものですが、自覚することができる場合もあります。
それは、罪悪感があり、「そろそろやめないとな」と考える状態です。
また、「他人に隠す」というのも特徴の一つです。
そうなっている人は、問題行動や依存物質により不安が誘発されているわけですから、すでに依存症になっていると考えて間違いありません。
依存と依存症の境界線
今までの話をまとめると、依存と依存症の境界線は、ちょうど下の図の通り正の強化と負の強化が逆転する場所です。
まとめ
依存と依存症の境界について、今日は書いてみました。
依存というのは、「はまっています」という状態です。本文中にも書きましたが、やっている理由も明快で、罪悪感もなく、他人にはまっていることを隠そうとはしません。(むしろ、他人に紹介したいくらい?)
依存症というのは、「苦しみから逃れるためにやっている」という状態です。やっている理由も捏造したものだから非論理的で、罪悪感があり、他人には耽溺していることを隠そうとします。
性依存症(性犯罪、セックス依存症)の場合も、「もうこんなことやめたい」というのがキーワードのように私は思います。
この記事が皆さんの理解を助けるようなものになれば、私は嬉しいです。
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