「家族が依存症のことを理解してくれない」と思っている当事者は意外と多いです。
「理解してもらおうと思うのがだめだよ。依存症なんて当事者しかその気持ちが分からないんだから。」という反論も聞こえてきそうです。
結論から申し上げると、この話題については、共感や理解を相手に求めるのではなく、自分から主体的に動くことが大切です。
なぜ共感や理解を求めてはいけないのか、主体的に動くとはどんなことかについて詳しく説明していきます。
依存症の症状は他人に理解してもらえるのか
性依存で治療中の人は、問題行動を起こさないようにルールをさだめて、
- 行ってはいけない場所
- 通ってはいけない道
- 会ってはいけない人
- 外出禁止の時間帯
など細かくルールを定めています。
それほど対策をして問題行動をやめたいと思っているのに、時々スリップをしてしまったり、渇望がでたりします。
それを聞いて多くの人は、「ルール通りに生活して問題行動をやめるのなんて簡単ではないか」と思うでしょう。
依存症は大変な病気だというのは知識ではわかっています。大変な状況なんだろうなと同情はします。
しかし、嗜癖が一致していなければ、心の底からは共感することができません。「◯◯なんて何が楽しいのだろう」という感じでしょう。
反応的な対応、主体的な対応
「家族が依存症のことを理解してくれない」というのは、「家族」が主語の言葉で否定形です。このような言葉は、反応的な言葉といわれています。
反応的な言葉は、決定論的なパラダイムから発せられるものである。その背景にある精神は責任を転嫁することである。責任は自分にはない、自分の反応は選ぶことができないというものである。
ステーブン・R・コビー『七つの習慣』 より引用
「家族が理解してくれない」というのは私に責任がないし、それに対して自分の反応は選ぶことができないという精神の表れなのです。
しかし、「家族が理解してくれない」ということに対して主体的に自分を介入させることもできます。
とかそういった主体的な対応です。
このように全くコントロールできない問題についても自分の態度を変えることができます。
変えられない状況に対して、誠実に真摯に取り組んだり、穏やかな気持ちで感情的にならずに取り組むこともできます。
自分が問題にコントロールされるのではなく、自分が問題に対する態度を選択できるということを忘れずにいたいですね。
コメント