深夜に「窓」のことを真剣に考えた話

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風呂上り。僕はベッドの上に寝転がって、スマホを片手に、秋の夜風を堪能していた。

私のちょうど右側には窓がある。網戸越しに、隣の民家の屋根と、その奥には見事な満月が見える。

彼女がドライヤーを終えて寝室に入ってきた。窓を閉めて欲しいと私に言う。

彼女が窓を閉めて欲しいという理由は単純明快で、近所のスーパーの搬入作業がもうすぐ始まって、その騒音が耐え難いからだ。

それに、もう10月である。風呂上りは夜風が気持ちいいのだけれど、時間がたてば私たちの体温を奪っていく。

彼女の窓を閉めてくれと言う要望はもっともだし、私もそれには応じるつもりだった。

が、ちょっと意地悪をしてみた。

最近は心理学に心酔しているので、物事の根本的なところを考えるのが楽しい。

私が彼女に投げかけた質問は「窓って何ですか?」という質問だ。

ちょうど、今診ていただいている主治医の口調を真似して、冗談交じりに。

彼女は「変な事言ってないで閉めてよー」と頬を膨らませている。

ここで困ったことが起きた。

自分で質問を作っておきながら、自分で上手に答えることができない。

私は完璧主義者。

自分で作った質問に答えられないのは嫌だった。

なぜ、窓は存在しているんだろう。窓がない方が防音・遮熱に優れるのは言うまでもない。

窓の存在意義は何だろう。

少しの間考えて、色々と考えがまとまってきた。

きっとそれは、人は孤独になりたいという欲求と、人(あるいは自然)とつながりたいという欲求の両方を併せ持っているからだろう。

集中して読書したり、考えたいときは、部屋という閉鎖空間に逃げ込む。

一方で、道行く人の声や、季節の虫の声、季節の香り、日光を感じたいときは窓を開け放つことで、閉鎖空間を一部開放するのだ。

そして、開放の仕方も実に興味深いことに気が付いた。

網戸は虫が通過できないが、空気・風・音・日光は通過する。

ガラスは虫・空気・風・音は通過できないが、日光は通過する。

カーテンは日光は通過できないが、虫・空気・風・音は通過する。

雨戸はすべてシャットアウトする。

なるほど、各フィルターに個性があるわけだ。

4種類のフィルターがあるわけで、単純計算で2の4乗で16通りの窓の作り方(塞ぎ方?)がある。

いままで特に意識することなくフィルターを組み合わせて、理想の機能を持った窓を作っていたのだ。

例えば、網戸一枚の場合は、虫は通したくないが、風や月光、虫の声を味わえる。

ガラス一枚の場合は、虫も風も音も通したくないが、日の光は取り入れられる。

網戸、ガラス、カーテン、雨戸を全部閉める場合は、防音・遮熱という意味合いが強くなる。

面白いなと思った。

窓の存在意義を考えたこともなかったし、窓の機能性についても初めて真面目に考えた。

同時に、「何十年も窓を使ってきたのに、何もわかってなかった」というのにも気が付いてびっくりした。

窓なんか余裕で使いこなしていると思い込んでいたのに、深く考えてみたら、全然その存在意義や機能を知らなかったのだ。

もしかしたら、世の中知らないことばかりなんじゃないかと思う。

うん、きっとそうだろう。

例えば、自分。

自分なんて、もう年齢の数だけ共にしてきた相棒である。

自分の使い方も、自分の性質(性格)も分かっていて当然…

と思いきや、全然わかっていない。

だいたい、分かっていたら、依存症になってもいないし、精神科に通うことにもなっていなかっただろう。

そんなわけで、自問してみた。

「自分って何ですか?」

それについて熟考してみたのだけれど、納得できる答えが出てこない。

少しは思いつくこともある。

完璧主義なところ、人と比べてしまいがちなところ、など。

でも、どちらかと言うと、自分の嫌いな部分しか出てこなかった。

それは、今の心境を反映しているのかもしれない。

無職。

精神科に通っている。

どこか自分のことが惨めだと感じている。

自分のしてしまったことがひどいので、その責任は取らなければいけないと感じている。

色んな自分がいる。

心境としては、自分の嫌な部分を見つけ出して、「だから自分の人生はうまくいっていないのだ」と言いたいのかもしれない。

だから、「自分って何?」という質問をすると自分の嫌な部分しか出てこないのだろう。

ここで新しい疑問が出てきた。

「自分の人生は上手くいっていないのか?」

刑事事件のとき、被害者に許していただき、不起訴処分となった。

よい弁護士に出会った。

依存症で通院するうちに、生活や考え方が一変した。

沢山の友達、仲間を得た。

よき理解者の彼女がいる。

母親が元気。仲も悪くない。

なんだ、幸せじゃないか。

私は幸せじゃないか。