『自省録』を読んで④

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今回のテーマは「死と向き合い、いまを生きる」です。

前回のお話しした通り、死はそれ自体では、善でも悪でもないため、善悪無機なものです。

「死は出生と同じく自然の神秘である」(4・5)

とも書かれており、死はただの自然の摂理であり、それ自体では悲しむことも恐れることもないのです。

しかし、人は「死」を悪、自分のためにならないものと捉えてしまったり、ともすると、自分だけは死なないとどこかで思ってしまったりします。

死から目をそらさず、徳をもって接するコツをここでは紹介したいと思います。

メメント・モリ

あらゆるものは本性的に死ぬものである」(10・18)

にもあるとおり、死は必ず訪れます。

しかし、(死が怖いからか)現代人は自分だけは死なないと思ったりして、目を背けようとします。

死を、生きる勇気にできないでしょうか。

メメント・モリというラテン語は、死を忘れるなという言葉です。

終末観におおわれた中世ヨーロッパで流布しました。

アウレリウスもこのメメント・モリ――死を直視する訓練をしていたようです。

すべての行為を生の最後の行為のように行う」(2・5)

お前がこんな目に合うのは当然だ。今日善くなるよりも、明日善くなろうとしているからだ」(8・22)

という自戒の言葉を残しています。

最善を尽くすこと、人生に積極的に生きること、今しか生きられず今しか幸福になれないことを徹底的に自分に課していたようです。

人格の完全とは毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善をしないこと」(7・69)

とも言っています。

毎日を最後の日にように過ごすというのは並大抵のことではない上に、激――どうせ死ぬと自暴自棄になったりせず、無気力――何をやっても仕方ないとも思わず、偽善――自分をよく見せようともしないという自戒をしていたのです。

最後の日のように過ごすとは、具体的にどうしたらいいでしょうか。

この一つの答えが、「ぐずぐずしないでさっさと利益を摘み取れ」という考え方です。これは、岸見一郎さんが参考文献で触れていた思想です。「日を摘め」(carpe diem)という古代ローマの詩では、未来など頼みにしないで、今日この日を摘み取れとうたわれています。

確かにその通りで、明日に摘もうととっておくと、花や芽は変化するかもしれませんし、昆虫や鳥に食べられているかもしれません。他人が摘んでしまうことだってあるでしょう。

「ぐずぐずしないでさっさと」というのは、少し乱暴な表現のようですが、死を意識して生きることが難しいことを考えると、これくらい強い表現のほうがむしろしっくり来るかもしれません。

さいごに

私なりのメメント・モリを紹介します。

私は最近このように考えることがあります。

「人生は30000日。すでに、11000日を生きた。」

何故かわかりませんが、年で考えるよりも日で考えた方が、死を意識することができるのです。

人生の残りは19000日。月に換算すると600月。

これを多いとみるか、少ないとみるかという問題ではなく、

いまここを生きる勇気にしたいと思っています。

やるべきことをやる。

という勇気が湧いてくる考え方は人それぞれです。

皆さんもよい考え方を見つけてみてください。

4回にわたって紹介した「自省録」特集も、今回が最終回となります。

お付き合いいただきありがとうございました。

書評
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