箱根駅伝の予選会をテレビで見た。
人生で初めて箱根駅伝の予選会と言うものをみた。
いままでは、自分は仕事をしていたし、テレビなんてほとんどつけないから縁がなかったのだろう。
今回は、たまたまニュースでも見ようかとテレビをつけたら、選手が走っていて釘付けになった。
何が面白いのかよくわからないが面白かった。
選手がただ走っているだけである。
画面の端っこには、タイムだったり、どの学校が本選に進めるか予想(現在位置)だったりが表示されているだけ。
なにが面白かったのか、いまブログを書きながら考えている。
面白かった理由は2点だと思う。
- 走っている彼らの過去の努力を想像した。
- チームのつながりを感じた。
この2点だ。
走っている画面を見て思うのは、この人は努力をしたんだろうな、という尊敬である。
大学生と言ったら、青春時代真っただ中。高校生よりも、自由に活動できる。お酒だって飲めるようになるし、旅行だって好きに行ける。大学は毎日出席しなければいけないわけではないし、単位さえ取れればOKという雰囲気。
そんな中で、空いている時間にこの人たちは走っていたんだ、と感心する。
走るという行為は、娯楽ではない。
彼らは努力していたんだ。
いまが、彼らの晴れ舞台なんだ。
そう思うと感動した。
自己実現を真剣にしているひとをみると、勇気をもらえる気がする。
自分を律し、表現することの美しさを感じた。
そして、もう一つがつながり。
今回の駅伝の予選会というのは、コロナウイルスの影響で通常とは異なるルールだったようだ。
全員で立川の自衛隊駐屯地のなかのコースをぐるぐる回る。
タスキをつなぐわけでもなく、1チーム10人がはしる。
大量の人が、ぐるぐると円形のコースを回るという異様な光景だった。
10人の合計タイムがチームのタイムとなり、優劣が決まる仕組みだった。
各校のエースは、チームのために先頭を引っ張っていた。チーム最速の男は、チームの勢いをきめる存在だから、頑張っていたと思う。後続のチームメイトが失速していても、その分をカバーしようと思っていたかもしれない。
逆に、各校の8,9,10番手の選手もいる。実況いわく、この8,9,10番手がどれだけ踏ん張れるかで、箱根に行けるかどうかが決まるらしい。私も、この、チームの中で遅い人たちがどれだけ頑張れるかというのに注目していた。
もちろん、第一集団よりもテレビカメラには映らないし、8,9,10番手は大きな集団に隠れてしまう。正直目立たない存在だ。
でも、この人たちには、それぞれ喜ばせたい人がいる。
家族、チームメイト、マネージャー、寮母。
色々な思いを胸に、目立たない第2、第3集団で奮闘する姿に感動を覚えた。
きっと、今の自分の姿を重ねたんだと思う。
自分にも喜ばせたい人がいるし、目立たないけれど頑張っているという自負がある。
そんな、思いを、走っている彼らに重ね合わせて応援していたのかもしれない。
チーム順位が第7位で箱根の切符を手にした山梨学院大学の監督が言っていた。
正確ではないが、だいたいこんな感じのコメントだった。
「私たちは山梨の甲府で練習している。走っていると、市民が声をかけてくれる。箱根頑張ってねと言ってくれる。そういう応援に応えることができたのが嬉しい。」
監督がよく知らないであろう道で声をかけてくれた市民にお礼を言っているのに驚いたとともに、はっとさせられた。
つながりの輪が大きいチームは強いだろうなと思った。
温かい気持ちになった。
チーム順位が第11位で、十数秒の差で箱根の切符を逃した筑波大学の姿も印象的だった。
跪いて、額を芝生につけて泣いている選手がいた。となりで、泣いてる選手の肩に手をやりながら慰めている選手もいたが、その選手も泣いていた。というか、皆泣いていた。
みんなで一緒に悲しんでいるのだ。
結果を共有して噛みしめている。
美しいなと思った。
今日はいいものを見ることができた。
ふと、たまたまつけたテレビだったが、これも何かの縁だろう。
自分の生きる勇気に変えていきたい。