失われた時期

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村上春樹さんの書いた文章で次のようなものがあります。

ときとして人には「失われた時期」があります。そこではいろんなものが失われていきます。たとえば時間とか、可能性とか…。でもそのときに失われたもののことを考えるのではなく、むしろそこで得たもののことを考えるのが大事なんじゃないかと僕は思います

私がこの文章を読んだ時に思い浮かべたのは、検察庁の硬い椅子です。

あの頃は勾留されていて、自分がモノのように手錠や縄につながれ、鉄格子のなかに居ました。

他にも、前科が皆に知られた状態で仕事をしていたときの居心地の悪さも思い出しました。4年くらい前のことです。最後の事件を起こす前です。

あの頃は、皆にジロジロみられている気がして肩身が狭かったです。

どちらの記憶も、思い出したくないし、恥ずかしいし、封印したい過去です。

そこから学ぶべきものなど何もない、そう思ってしまう自分がいます。

そこで得たものを強いて挙げるとすれば、

  • 深い悲しみの冷たさ
  • 苦しみから逃げられない自分の弱さ
  • 人を傷つけることで、自分を傷つけていた

だと思います。

検察庁の椅子は本当に冷たかった。硬い木のベンチでした。周りはコンクリートに囲まれ、窓と入口は鉄格子。そして、自分の未来、つまり起訴されるかされないかは、これから会う検察官次第。そういう深い悲しみの冷たさを今でもありありと覚えています。もちろん、悪いことをしたからそこに行くことになったので自業自得ですが。消えかかったロウソクを頼りに洞窟を歩いているような冷たさがありました。

皆にジロジロ見られながらも、その環境を捨て去れなかったのは、自分の弱さでした。というよりも、思考が停止していました。家族に謝れ、職場に謝れ、そういう助言を親戚や母親含め、色々な人から受けました。謝罪しながら同じ環境で頑張る、という道を当時は選びましたが、それは環境を変えることができない自分の弱さでした。「逃げ出さないこと」ではなくて「逃げること」が当時は大切だったのだと今になって思います。

依存症の問題行動で離婚したり解雇されたりして学んだことがあります。それは、人が本当に傷つくのは、罵倒されたときや非難されたときではなくて、心ならずも他者を傷つけてしまったときだということです。

自分は意志の問題やコントロール不全の問題を抱えていました。アクセルを踏み続けて暴走した車のような状態でした。そこで、人を轢いてしまった。私は暴走していたのは心地よかったですが、人を轢く気はありませんでした。そして、暴走を止めたいとも思っていました。

人を轢いてしまったときの落胆は、自分が交通事故被害者になったとき以上だと思います。他者を傷つけてしまったその動揺は、適切にケアしなければ、自己憐憫や自暴自棄となり、新しい暴走の契機となってしまいます。

今振り返ってみると、依存症当事者として「失われた時期」というのは、とても暗くて冷たくて苦しい時期でした。一時的に「俺様は何でもできる」というような万能感を抱くときもあれば、「自分なんて…」と憐憫に浸るときもありました。色々な心の浮き沈みがありましたが、ベースで流れていたのは、深海のように暗くて孤独で陰鬱な空気でした。

その時期のことは、乗り越えてもいませんし、折り合いもつけていません。ただただ、どんよりと自分の中に澱のごとく存在しています。

あまり刺激してかき回したくないのですが、村上春樹さんの言葉をきっかけに思い出し、少し自分の中で整理することができました。

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