外国人に、善意で片言の日本語で話しかけた時、その背景には「相手が流暢に日本語を話せないのではないか」という差別があるのだそうだ。
良かれと思ってやっていることにも、実は差別が隠れていることが多い。
重いものを持ってあげようという配慮も、相手は重いものが持てないのだろうという差別がある。
電車の座席を老人に譲る時も、相手は立っていたら疲れてしまうだろうという差別が隠れている。
こんなふうに、自分の行動の背景にある認知は自分では気が付きにくい。
依存症治療において、厄介なのが、いろいろな場面で「自分の行動は、自分でコントールできる」という認知が隠れていることだろう。
自分の行動は自分で選べると思っている人が多い。
しかし、朝寝坊やダイエットの失敗、買い物の失敗など、人間は最善の行動を選択できないことがある。
自分の行動は、自分でコントールできないときもあるのだ。
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