私には諦めた夢があります。
ここで具体的に書けない事情がありますが、おおまかに言いますと、仕事の専門的な部分です。
とてもやりがいがあって楽しかったし、多くの人の役に立てる技術でした。
ちょうど研修を終えて、独り立ちしていました。
しかし、それを継続して行うには、色々と制約があり、自分自身の安全、はたまた家族の安全が保てないということが前回の解雇で判明しました。
経緯を説明します。
私は逮捕をきっかけに一度無職になった後に、どんな仕事をしようか迷いました。
完全に以前と同じ内容の仕事にするか、若干変更するか、の2択で悩みました。
当時の結論としては、やりがいや充実感を重視して、完全に以前と同じ仕事内容を選びました。
しかし、業界内での噂なのか、結局は解雇になりました。
そうなると、同じ業界で仕事をするわけにいかなくなり、若干仕事内容を変更して、いまは勤務しています。
そういう経緯があったので、「諦めた夢」と表現しています。
先日、ふとしたきっかけで、その技術のことを思い出しました。
あの時は、とても充実感があって、人の役に立てて、何よりその技術を駆使するのが楽しかった、と思い出しました。
とても感謝されたこと、多くの人を笑顔にできたこと、技術の習得に励んでいた自分の努力、
走馬灯のようによみがえってきました。
と同時に、少し自己分析をしてみました。
自分自身の価値を「その技術ができる自分」という尺度で測っていたということです。
情けない自分になりたくなくて、逮捕や無職を経験した後に「復活」を私は試みました。(お伝えした通り、結果は解雇でした…)
その技術がなければ自分には価値がないという認知が隠れていたのではないかと今になって思います。
ところで、今は違う自分がいます。
- 家族を養う
- 自分らしい生き方
- どんな形であれ社会貢献できる
- 今いる場所・与えられた場所で頑張ろう
色々なことを考えています。
少なくとも、技術や技術を駆使する自分に固執してはいません。
諦めることができたんだと思います。
技術を駆使できない自分について、折り合いがつきました。
きれいごと抜きに言えば、
家族を養えればOK、人生はサバイバル
と思っています。
家族のため、仕事の安定のために、あれほど固執していた技術を諦める決断をすることができた自分に、私は慈しみを持って接したいと思います。
私には、「諦めた夢」があるけれど、それは「諦めることができた自分」との出会いでもあると思うのです。
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