とある日、電車のホームで人身事故に遭遇しました。
家族とキッズランド(一人1000円くらい払って遊ぶ、室内遊園地みたいなところです)に行った帰りでした。
ホームで電車を待っていると、電車が聞いたこともないくらい大音量の汽笛を鳴らしながらホームに入ってきました。
そして、大きく予定とはズレた位置に電車が停止しました。
その時は、何が起こったか私はわかりませんでした。
人が線路の近くにいて危なかったのかな、なんて考えていましたね。
しかし、周囲を見回すと、泣いている人や叫んでいる人がいます。
そして、一つのカバンがホームに落ちています。
その近くの男性に声を掛けたら、
「このかばんの持ち主が、線路に飛び込んだのです」
と。
状況が理解できたとき、私は動揺しました。
そして、実際にカバンの近くのホームと電車の隙間を見ると、なにやら死体のようなもの(しわしわになった服と肉体)があり、下には血溜まりができていました。
すぐに、妻のところに行き、その場を離れました。
振替電車で自宅まで問題なく帰れました。
振替電車に乗りながら、いろいろなことを考えました。
一つの命がなくなった瞬間に立ち会った。
たった数メートル近くで起こった。
近くにいた人の精神的な動揺は強く、また、運転手や乗客も心に傷を負ったかもしれない。
昔から人身事故のニュースはよく聞きますし、実際にダイヤの乱れに遭遇したこともあります。
しかし、こんなに身近で起きたことはありませんでした。
こんなにも、惨いとは思ってもみませんでした。
全然話が変わってしまいますが、
私は、みんなに名前がある、ということをふと考えました。
どんな人にも、両親がいます。
どんな人にも、名前があります。
名前には、両親の願いや祈りが込められています。
こういう子供になってほしい、こういう人生を歩んでもらいたい。
そういう、温かい気持ちで名前をつけるはずなのです。
今回の自殺もそうですが、虐待、無理心中、子供の親権問題など、命が関係したり、家族関係が関係する悲しいニュースを耳にするたびに、わたしは「名前」の存在を思います。
自分の誕生を喜んでくれた人がいます。
自分の成長を願ってくれた人がいます。
闇バイトなどの、加害行為に加担した人のことを考えても、私はその人の名前を見たときに、生まれたときに名前を付けた親はいるんだよな、としみじみと思います。
悲しい選択をする前に、精神的にぎりぎりのところにいるときに、私はそういったつながりを考える瞬間があれば、結果は違うものになった(なる)のではないかと思います。
私も、人生で自暴自棄になったり、自己憐憫に浸ったり、憤ったり、いろいろな状況がありました。
過去に、精神的にギリギリのところだったこともありました。
しかし、最近は、もういい年なんだし、親だったり家族を悲しませるのはやめたいと思っています。
きっと、真剣に子供の名前を考えたり、育児をしていて、育児ってとても大変だな、母親は自分を育ててくれたんだから感謝しなきゃな、という世代の連鎖のことを考える機会をいただいているからなんだと思います。
精神科で聞いた話ですが、院長先生が企業の面接を手伝ったときに、こう質問したそうです。
「あなたの大切な人はだれですか」
多くの人は、家族やパートナーを挙げることでしょう。
この質問を自分自身にしてみると、自分だけの人生ではないので、大切に思う家族のために頑張らなきゃなと私は身が引き締まります。
そして、自分自身もだれかから大切に思われているかもしれません。
いえ、きっと、私だって、このブログを読んているあなただって、誰かからは大切に思われています。
だから、その人を悲しませないように、私たちは、その瞬間瞬間を懸命に生きないといけないと思うのです。
今回は、このブログを書くにあたり、いろいろなことを考えました。
今回、お亡くなりになったかたのご冥福をお祈りいたします。
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