性の問題行動をしていた時は、「これでやっとやめられる」という感情を抱くときがありました。
私の場合は、雨が降ってきたとか、おなかが空いたとか、もともと決めていた時間が来たとか。
そういう何かのきっかけがなければ、ずるずると問題行動を続けてしまっていました。
性の問題行動は時間を無駄にしていたので、なにかのキッカケでその日の問題行動をやめるときは、それなりに悔しい気持ちやもっとやりたい気持ちもありましたが、「これでやっとやめられる」という嬉しさや解放された感じも抱いていました。
つまり、問題行動をやりながら、やめたいなとも思っていたんですね。
しかし、おなかが空いてやめられたというような話は、”その日に”問題行動がやめられてよかったというレベルの話です。
少しすすんで、留置場でのことです。
留置場に入ったときは、「これでやっとやめられる」という救われたような気持になりました(しかしやめられませんでしたが)。
留置場に入るという苦い経験を経ることで、”その日”やめられるというレベル以上に、”長期的に”やめることができると喜んでいたのです。
何か決心をすると、未来がきらびやかに見えるときがあると思うのですが、そんな感じです。
何も内面は変わっていないのに、決心だけしていたのです。
実際は、20日間の勾留のときは問題行動をしなくて済みましたが、釈放されてからは再び手を染めてしまいました。
そして、時が進み、精神科通院です。
これは、不思議なことに「やめなくちゃいけない」という悲しい気持ちもあったんです。
大好きな趣味を取り上げられそうになる気持ち、そんな気持ちでした。もったいない気持ちみたいなものもありました。
しかし、徐々にですが、自分の考え方が変わってきて、「やめつづけるぞ」という気持ちになりました。
そして、自分がずっと昔から「やめたかった」気持ちと「やりたかった」気持ちを両方持っていることに気付きました。
その2つの気持ちのうち、「やめたい気持ち」を応援することができるようになってきました。
結局、今になって気付いたのですが、「やめたい」と「やりたい」って相反する感情ではなくて、同じベクトルの感情なのかなと思います。
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