セックスに関する後悔とか罪悪感に関することを今日は書いていきたい。
思春期から青年期にかけて(つまり今から10年くらい前)、私は「特別に目立ちたい」という思いが強くあった。
だから、服装にもこだわったし、いかにお金持ちに見えるか、いかに育ちを良く見せるか、といったことに注力した。
(それは、高校生の時に父親が死んで、貧乏な時期を経験したことの反動だったのだと思うけれど)
そして、その自分を良く見せるという活動の原動力となったのは、性的な興味や関心が大きかった。
とにかく、モテたかった。
演技的に振舞い、女性に媚びを売っていたと思う。
そうして、性的な接触というのは、健全な形で満たされていった。
長く付き合う人もいれば、
ワンナイトセックスもあった。
危険な関係にドキドキするような背徳感のあるセックスもあった。
風俗にも興味があって、利用したことがある。
いろいろなことがあったが、10年前くらいの性的な活動は、他の男性と比べて著しく病的であったとは思わない。
誰だって通り抜ける思春期のエネルギーに満ち溢れた期間だった。
その、思春期の終わりごろに、私は性依存になってしまった。
「もう俺は十分遊んだ」とはならなかったのだ。
マスターベーション依存になって多くの時間を費やしたり、
エスカレーターで盗撮をするようになった。
そのあとにもちろん盗撮は逮捕されることになるが、
その逮捕がきっかけで、私の人生は転落することになった。
その後、別の問題行動で逮捕され、
合計の逮捕回数が2回になったころ、
「普通の人生は難しいんじゃないか」
と思った。
離婚もして、孤独になったし、
自分の名前で検索すると逮捕歴が出てしまうからだ。
あの時はボロボロだった。
話を聞いてくれる人もいなかった。
というか、真実を誰かに話すという強さが当時の自分にはなかった。
誰も頼れずに、孤独で、色々な物事に対する怒りや憎しみもあり、
そして、自暴自棄になった。
もうどうでもいいやという感情になった。
無気力ではなくて、変なエネルギーに満ち溢れていた。
その時に、「遊んで生きていこう」というよく分からない決心をすることになる。
前科を隠せ、性的に遊べるという出会い系アプリにはまった。
それ以降は、出会い系アプリを利用した、性的に奔放な時期を送る。
その期間が、最悪だった。
これぞ性依存という状態だった。
コンドームの使用を拒むようなセックスをしていた。
性病だってもらった。
相手となる女性は、なんだか心に問題を抱えていたり性依存のような感じだったので(少なくとも私の眼にはそう映った)、
妙に親和性が高く、
少なくない数の女性と連絡を取り合う日々を送った。
そんな生活のさなか、性的な問題行動で3回目の逮捕も経験した。
この期間は、人生のどん底だった。
(不思議なことに、そのころに戻りたくない自分と、戻りたい自分というのがいるような気がする。
この、「最悪な時期に戻ってみたい」というのが、依存症の根っこにある合理性を描いた矛盾であり、コントロール障害なのだと思う。)
さて、今思い返して思うことが、
「普通の人生は難しいんじゃないか」 という辛さや孤独感を埋めるために性的奔放に走ったが、
過剰なセックスは、それ自体で罪悪感を伴った。
だから、セックスで生じた罪悪感を、セックスで埋めるという日々を送っていたのだと思う。
そうすると、行為の内容や、行為の頻度、交友関係がどんどん病的なものになっていく(エスカレート)。
これこそ、漫画「セックス依存症になりました」の世界だ。
振り返ってみると、
性的な活動において、恥ずかしくなるようなエネルギーに満ち溢れた期間があるというのは、特に問題ないと思う。
誰でも、少なからずそういう時期がある。
一方で、性的な活動において、毎日後悔するようなものは、問題だと思う。
夜に寂しくなる、行為の後に虚無感がある。
そういうものはダメだ。
負のスパイラルが始まってしまう。
(いま、その状態の人がいるなら、真っ先にこう助言したい。
「SOSを誰かに出してください」
精神科でも、自助グループでも、私でもいい。)
最後に。
私はその時に比べたら、はるかに生きやすいし、幸せだ。
色々な人に迷惑をかけた自分の人生だが、なんとか立て直しつつある。
残りの人生、同じ間違いは犯したくない。
コメント