前回に引き続き、自省録を扱いたいと思います。今回は、主に他者との関わり方についてです。
なにかと私たちを悩ませる他者の存在ですが、どう向き合ったらいいのでしょうか?
裏切りや過ちを犯した人を「愛する」
アウレリウスは裏切りや過ちを犯した人間に対して、常に寛容であろうと努めました。寛容どころではなく、「愛する」とまで言っています。
他者の過ちに対して、寛容・隣人愛が求められるというのです。
理由は四つあります。
一つ目は、自分の指導的部分(理性)が脅かされたわけではないからです。他人の裏切りや過ちで、自分のなかの最も大切な部分である理性は脅かされません。
二つ目は、自分も同じ過ちを犯しうるという自覚があるからです。
三つ目は、その人がなぜ過ちを犯したか考えてみると、何が自分にとってためになり何が自分にとってためにならないか正しく判断できていなかったからだということに気付いたからです。当人は無知のため心ならずも過ちを犯していたのです。誰一人として、悪、すなわち自分のためにならないことを欲する人はいません。自分のためになると思っていたものが、実際には自分のためにならなかったということに過ぎないのです。
四つ目が、人間は互いのために生まれたので、協力するのが自然という考えがあるからです。互いに対立することは自然に反します。(アウレリウスは利己主義、排他的言動を否定しています)
怒りについて
自省録では、怒りについて多くの記述があります。アウレリウスは復讐や報復を禁止しています。
「怒らずに、教え、示せ」(6・27)
という言葉があります。
これは、怒りを覚えるようなことを相手がする場合は、私を怒らせるためにあえてそのようなことをしているのであって、教えるだけでは相手の行動は変わらないから示さなければならないということです。
「お前が怒りを爆発させたとしても、それでも彼らは同じことをするだろう」(8・4)
という言葉もあります。
怒るからいよいよ彼らは同じことをするのです。
争いに勝っても、得られるのは相手からの憎しみや、増幅された反発心です。
自分が正しいという思いに囚われている間は争いの中にあるといえましょう。
人間は根底に優越感を求める気持ちがありますので、権力争いをしがちです。
しかし、権力争いからあえて降りるのが徳のある振る舞いといえます。