「自分とは何か」という命題とセックス依存症

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「自分とは何か」という命題があったときに、人は多少は悩むことになる。

もちろん、自分についての純粋な情報量から言えば、自分以上に自分のことを語ることができる人間はいない。

しかし、「自分は○○な人間なんですよ」という発言は往々にして間違っていることが多い。

それは、語り手としての自分が主観的であり、客観的に自分というものをとらえられないからだと思う。

つまり、自分では自分のことが分からないのだ。

そうすると、人は他者との接点において、「自分とは何か」を探ろうとする。

誰かと比べてみたり、誰かと一緒にいる自分を観察してみたり。

その最たるものが、肉体的な最も深い部分でつながるセックスだと思う。

突拍子のない発言と思われるかもしれない。

しかし、私は、セックスというのは自分を確認したいという欲求が背景にあると思っている。

その根拠として、セックスの開始年齢というのは、精神的に成熟して、「私とは何か」という哲学的な問いをみいだす年齢と合致している。

ところで、「自分とは何か」という命題に直面したときに、考え込んでしまうというのは、幾分病的であろう。

その、脆弱性が背景にあり、セックスに耽溺し、セックスから罪悪感が生まれ、生きにくくなり、ますますセックスに耽溺していくというスパイラルを形成するのだと思う。

「自分とは何か」という命題について、悩まなくて済む人生とは何か。

それは、条件のない愛、つまり愛着を受けた人生だと思う。

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