最近は、村上春樹さんの『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイを読んでいます。
これ、走ることに関する村上春樹さんのエッセイなのですが、実に哲学的で面白いです。
村上春樹さんは1983年に、ギリシャのアテネからマラトンまでを走ることになりました。
これが村上さんにとっての、初めてのフルマラソンだったそうです。
雑誌の取材を兼ねたもので、写真家も同行しました。
実際には、走っている姿が何枚か撮れればOKなので走ったふりをすればいいのですが、村上さんはせっかくだからと、マラソンの起源であるアテネ-マラトン間を完走するという目標を立てました。
その時の、心理描写が面白くて、
37キロあたりで、何もかもがつくづくいやになってしまう。(中略)だんだん腹が立ち始める。道路脇の空地に散らばって幸せそうに草を食べている羊たちにも、車の中からカメラのシャッターを切り続ける写真家に対しても腹が立ち始める。シャッターの音が大きすぎる。羊の数が多すぎる。
(中略)
それから二十数年が経過し、年数とほぼ同じ数のフル・マラソンを完走した今でも、42キロを走って僕が感じることは、最初の時とまるで変化していないみたいだ。今でも僕はマラソンを走るたびに、だいたいここに書いたのと同じ心的プロセスをくぐり抜けている。30キロまでは「今回は良いタイムが出るかもな」と思うのだが、35キロを過ぎると身体の燃料が尽きてきて、いろんなものごとに対して腹が立ち始める。
(中略)
ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
この、腹を立てるというところが、私は妙に印象に残りました。
私も腹を立てたときのことを考えると、自分自身の限界に近づいた時だと思うんですね。
なにもスポーツで自分を追い込んでいるときだけじゃなくて、精神的に辛いとか、ストレスが多いとかそういう苦しみも該当すると思います。
自分に余裕がないときは、腹を立てやすいです。
村上さんが羊に腹を立てたように、幸せそうに歩いている家族が憎い、優雅な生活をしている芸能人が憎い、そんな風に私は感じることがあります。
なぜかわかりませんが、「相手は相手でうまくやっている」という状況が許せなくなってしまうんですね。
「自分の余裕」と「他者への怒り」というのは反比例の関係なのではないでしょうか。
たとえば、google mapで山を調べると、めちゃくちゃ高評価なんですね。星4.8とかもザラです。それは、登山に行けるほどの余裕(登山って、時間も必要ですし、道具を買うお金もそれなりには必要なわけで、色々と余裕がある人が楽しむものだと思います)がある人が行くから、「山よありがとう」という感謝が芽生えるのだと思います。
一方で、googleで精神科を調べると、それはそれはひどい評価です。星2とかもあります。それは、精神科を受診した人が心の余裕がなかったからなのだと思います。そういう人は、スタッフの言葉遣いとかそういったことに敏感になっている、多少のことで腹を立てやすい状態になっている、と私は推測しています。
ところで、夫婦でお互いが限界に近いときは、お互いのことが憎くなったり、お互いが腹を立て合ってしまうのでしょう。
それが、夏ごろの私たち夫婦だったのではないか、と今では考えています。
妻は出産・育児で、私は解雇・再就職でお互いがいっぱいいっぱいでした。
だから、お互いに腹を立て合っていたのかもしれません。
広い目で見ると、腹を立ててもあまりいいことがありません。
しかし、腹を立てなくては自分が保てないという瞬間もあるのは事実です。
スポーツというのは、特に一人で行うスポーツは、自分と向き合う側面があると思います。
私もランニングやソロ登山が好きですから、きついときは、なんとなく自分と向き合っている感覚があります。
そうして自分と向き合うこと、自分の性質を理解すること、それがソロスポーツの醍醐味なのかもしれません。
自分が追い込まれているときに怒りやすくなるという性質があるとしたら、
スポーツを通してその性質に触れることで、
対応がうまくなっていくのではないかと思います。
「腹が立ち始めているな」
「自分の限界が近いな」
という自己分析ができれば、
限界状態でも自分をコントロールすることができるようになるかもしれません。
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