先日、興味深いSNSの投稿を見ました。
花が好きだったら「摘み取る」
花を愛していたら「水をやる」
という内容です。
うーん。なるほど。
考えさせられます。
以前ブログにも書いたのですが、
無人島に漂流した人に
「魚をあげる」のか「魚釣りを教えるのか」ということにも通ずると思います。
これは、結局、
自分が気持ちいいのか、相手のためになるのか、
という視点の違いがあるように感じました。
つまり、好きというのはどういう状態なのかというと、
「自分に利益がある」状態。
愛するというのは、
「相手に利益がある(ように取り計らいたい)」状態。
それが、私の見解です。
(人に教えることが自分の利益・気持ちよさにつながる人もいると思いますが、その話は今日は置いておきます)
この考え方が、なんで性依存症のブログに出てくるんだろう?と思われた方もいるかもしれません。
しかし、この好きと愛の違いが、依存症の治療には関係していると思うのです。
依存症者は共感性が乏しいとか色々なところで言われています。
すると、愛するということができないんですね。
「盗撮を私は愛しているので、盗撮作品を扱った美術館を開きたいと思っています」なんて話は絶対にないのです。
どうしても、「自分だけに利益がある」状態を追求してしまします。公共の利益、相手の利益なんてものは考えられないのです。
生活のすべてにおいて、そういう考え方が出てしまいます。
悪く言えば搾取的ということです。
この自己中心的で搾取的な態度がきっかけで、人間関係に困難をきたしたり、ストレスが溜まったりすると、問題行動になりますし、
そもそも、問題行動そのものが自分のことしか考えていない短絡的な(動物的な?)営みだと考えます。
ちなみに冒頭の例に戻りますが、私は「花を摘み取る派」の人間です。
たくさん摘み取ってコレクションしたり、レアな花を摘み取って自慢したいという考え方を持っています。
これは、自己愛性パーソナリティの一面だと思います。
自分のことが以前よりはわかるようになってきていて、恐ろしい自分にも直面しています。
自己愛性パーソナリティは超危険で、パワーのある、飼い慣らしにくいパーソナリティだと痛感しています。
そして、穏やかなマイペースな生活というのが自己愛性パーソナリティの治療と本で読みましたが、
スリリングで超高速、ハイパワーな人生を歩んでみたいという願望が捨てきれないです。
それでは今日はこの辺で。
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