精神科医に求められる共感と否定のバランス
つまり、物事には二面性があるということです。
辛さの核心に迫るためには、認知の部分にメスを入れていかなければなりませんが、「この先生嫌い」となってしまうリスクもあります。
辛さの核心に迫らなければ、理解的・支持的に接することで「この先生は話を聞いてくれる」となるかもしれませんが、認知の部分にメスを入れることはできません。
バランスをとるのが大切だと思うのです。
もし、私が精神科医であれば、初回の医療面談は理解的・支持的に接することで「この先生は話を聞いてくれる」と思わせて終了します。
そして、2回目の医療面談で、「実は〇〇さんのこの考え方が辛さの原因ではないかと思うのです。」といって、核心に迫っていきます。
時間の余裕があればの話ですが…
「依存症の家族が受診したときに、精神科医は労いの言葉をかけるべきか」
さて、いよいよ本題ですが、「依存症の家族が受診したときに、精神科医は労いの言葉をかけるべきか」という問いに皆さんだったらどう答えますか?
たしかに、普通は労いの言葉をかけた方がいいかもしれませんよね。
「それは辛かったですね」「それは大変でしたね」
という感じです。
一方で、それでは何も解決しないというのもここまで読んでいただいた皆様ならお分かりのことと思うのです。
「話を聞いてくれた」「ああ、いい先生だったな」というひとときの満足感はあるかもしれませんが、辛さの根本にメスを入れていないので、長期的に見れば何も変わらないということになりかねません。
「話を聞いて欲しい」という患者さんが来たら
一方で、患者さんが辛さの真っただ中にいる方の場合は、どうでしょうか?
この状態にいるかたは、寝る前に辛くなって毎晩泣いていたり、不安で眠れなかったりします。
その時は、少なくとも「考え方を変えて事態をよくしたい」というよりは「話を聞いて欲しい」という欲求の方が強いのではないでしょうか?
とくに、依存症の家族の場合は、自分が被害を受けているという感情があります(これは当然のことです)。
それに関して、本人が望んでいることは「その被害者感情は捨てた方がいいですよ」という助言ではなくて、「それは辛かったですね」という傾聴・需要・共感なのだと思います。
結論
精神科医というのは、世の中で最も相手の言っていることを否定しなければいけない職業の一つだと思います。
「あなたの考え方変えた方がいいですよ」と言わなければいけない職業なのだと思います。
労いの言葉をかけるだけでは精神科医は務まりません。
しかし、一方で、「自分の考えを聞いて欲しい」という患者さんが来た時に傾聴・需要・共感ができなければ、患者さんは怒って診察室を出ていくだけです。
結局は、ミスマッチが生じていたり、バランスの問題なのだと思います。