差別とは、自分とは異なる性質を持つ他者に対して、その人を個人として批判するのではなく、その人が属していると思われる集団のスレテオタイプに結びつけて短絡的な判断をすること
と定義したい。
差別をしないためには、個人を個人としてみることが大切だ。
たとえば、「黒人」という枠ではなく、「○○さん」という個人として接すればよろしい。
どうしても、スレテオタイプは存在する。
「アフリカ人」は足が速い
「ユダヤ人」は聡明
「ロシア人」は酒に強い
などと、私の中にもスレテオタイプは存在する。
ステレオタイプというのは、その人が過去に与えられた情報によって、なかば自動的に作られてしまうので、仕方がない。
問題は、個人を個人としてみずに、何らかの集団に属しているととらえてしまうことだ。
いちど、集団の一員ととらえてしまえば、集団のステレオタイプが脳裏をよぎる。
さて、この差別だが、他人にするだけでなく、自分にもしてしまう。
自分は女/男だから…
自分は高卒だから…
自分は性犯罪者だから…
どうしても、自分の特徴を上げて、その特徴を有する集団のステレオタイプに重ねてしまうのだ。
そうしてしまえば、自分への差別が完成する。
自身を個人としてみることができれば、自分への差別からは自由になることができる。
恥辱と自己蔑視。
それらから解放されるためには、集団との関係においてしか自分をとらえられない悪い癖を改め、私自身を一個体としてみつめることが求められている。
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