なにか対象があったときに、事実は事実として存在しているが、
それを感じ取る観察者としての「私」が必ず存在している。
「客観的な事実」と「私から見た事実」というのは微妙にズレていることが多い。
上の図はよくある錯覚だ。
「横線は上も下も同じ長さなんですよ」という客観的な事実も大事だが、
「下に描かれている横線の方が長く感じられる」という主観的な事実も大切だ。
これなんかもそうで、中央にある丸の大きさが、実際は同じだが、違って見える。
人間は事実をありのままに感じ取るのではなくて、必ず何かしらの解釈が存在してしまう。
解釈。
これが、曲者なのだ。
この、自動的にされてしまう、逃れることのできない、解釈というものの存在を私たちは忘れてはならない。
「隣の芝は青く見える」現象なんかもそうで、隣の家の人はいいよなとか他人を羨むときに、他人の苦労なんて考えが及ばなくなるだろう。
人間には、傾向性というか、法則のようなものがある。
そして、興味深いことに、それらの法則は昔から変わらないようで、ことわざとか言い伝えという形で伝承されていることが多い。
事実が大事、私は理系。
そんな人もいるかもしれないが、
主観的な事実・解釈というのも大切な考え方だというのを私は伝えたい。
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