両価性感情

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以前のブログで、両価性感情に関して扱っています。

最近思うのが、両価性感情というのは色々なところに潜んでいて、

私たちは、勘違いしている、ということです。

例えば、好きの反対が嫌い、だと考えているひとが多いですが、

好きの反対は無関心です。(嫌いの反対も無関心です)

好きだからこそ嫌いになれるという状況もありますし、

相手に関心があるからこそ、好き嫌いというレッテルを貼りたくなります。

例えば、とても好きなお菓子があったときに、味はいいんだけどパッケージが気に食わないとかそういう感じです。

「どうでもいいや」にならないというのがポイントで、対象にとても強い関心があるということです。

人に対しても同じことが言えます。

「愛憎」という言葉がありますが、この言葉の存在が、両価性感情が身近であることの証明ではないでしょうか。

つまり、人の感情というのは、方向性があるわけではなくて、量があるだけなのです。

それが大きいか小さいかなのです。

物理学的に言えば、感情はベクトル量ではなくてスカラー量なのです。

これを、問題行動に当てはめてみると、

問題行動に対して、執着したり、好んだり、避けたり、色々な思惑が交錯するのは、問題行動に対する感情の総量が大きいことを意味します。

こうなってしまうと、問題行動をきれいさっぱり忘れ去る(どうでもいいやという状態にする)ことは難しい。

大好きな人は、大好きなままか、大嫌いになるかしかないのと同じで、

問題行動に対しても、耽溺するか、意識して避けていくかしかないのです。

我々は、問題行動をやめたいのですから、意図的に、戦略的に避けていくしかないのだと思います。

しかし、もしかしたらですが、無関心に至ることができるのではないかという期待も持っています。

「なんだか、昔は狂ったように(病的に)●●にハマっていたな」と思える日が、すなわち●●という問題行動にたいして無関心になれる日が来るのかどうかはわかりませんが、

もしかしたら、問題行動を避け続けるという日々の反復作業で至ることのできる境地なのかもしれません。

経験上、とてもハマった遊びやゲーム、流行も、どうでもいいやと思える日が来ましたから。

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