『自省録』を読んで③

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自省録についての第三回となります。

今回のテーマは、「人間には耐えられないようなことはそもそも何一つ起こらない」です。

思慮ある人は、困難に向き合い、耐えることができるとされています。

思慮ある、というのは、なかったことにしたり、虚勢を張ったりしないということです。

気高く耐えることが幸福である

悲しい、一見不幸とも思われる出来事に対して、どう対応したらいいでしょうか。

自省録では「気高く耐える」ことが幸福であるとされています。

「耐える」と聞くと、目を背けたり、悲しまなかったりということを想像すると思いますが、悲しい出来事にただ「耐える」のはあまり得策ではありません。

ただ「耐える」のではなくて、「気高く耐える」ことが求められます。

「気高く耐える」とは、一度は悲しみに浸ることがあっても、その中で自分を見失うことなく、時間がかかってもやがて立ち直っていくことを言います。

逆に、悲運に打ちのめされたり、未来を思って不安を募らせたり、苦しんだりするのが不幸なのです。

善悪無機

「善悪無機」というのは自省録で頻繁に出てきますが、これはそれ自体では善でも悪でもないという意味です。

財産・地位・成功・健康などもそれ自体は善、つまり自分のためになるものではありません。

逆に、病気・誰かの死・天災なども、それ自体は悪、つまり自分のためにならないものではありません。

そういう意味では、財産・地位・成功・健康も、病気・誰かの死・天災も善悪無機なものなのです。

こういった、善悪無機なものに執着しすぎないのが、立派に生きるコツとアウレリウスは言います。

徳(arete)

徳とは、何が善(自分のためになる)か悪(自分のためにならない)かを判断する理性が正しく働いている状態のことを言います。

徳を伴えば、善悪無機なものにも、「善」であるか、「悪」であるか判断ができるので、幸福に近づくことができます。

徳がなければ、善悪無機なものに執着しても、正しい判断ができないので、振り回されてしまったり、不幸になってしまうこともあるでしょう。

つまり、徳をもって善悪無機なものに接するのが良く、一方で善悪無機なものには執着しすぎないことも大切だとアウレリウスは言うのです。

最悪なのは、徳をもたないまま、善悪無機なものに執着してしまうことです。こうなってしまうと、不幸に向かってしまいます。