性依存症とリフレーミング

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性依存症のリフレーミング

私の場合を紹介したいと思います。

依存症の自己治療仮説に出会ったとき、私の中でリフレーミングが起こりました。

当時、私は、「依存症は、意志が弱く、欲望に負けてしまった人間がなるもの」と思っていました。「依存症は病気なんだよ」と説明されても、心の奥底で、自分の意志が弱いのが原因だと自責の念に駆られていました。

つまり、「依存症は病気なんだよ」という説明では、私の中でのリフレーミングは起きなかったのです。

ところが、自己治療仮説は違いました。

下に、自己治療仮説の概要をまとめました。

自己治療仮説
  1. 心理的な痛みこそが依存症や嗜癖行動の中心的問題である。困難や苦悩を抱えた人は、その物質や行動が(一時的ではあるが)安らぎをもたらすことを発見してしまったがゆえに、依存性物質や嗜癖行動に頼らざるを得なくなっている。
  2. 依存症を抱えている人は、決して手探り次第に「気分を変える物質や行為」に手を出しているのではなく、困難や苦悩を緩和するのに役立つ物質や行為を選択している。
  3. 依存の成立に必要な報酬は、物質がもたらす快感やハイな気分だけに限らない。どう考えても苦痛としか思えないような破壊的な行動さえも、それが「説明可能な苦痛」であるがゆえに、「説明困難な苦痛」から意識を逸らすのに有効な場合がある。

私は被害者が出てしまうような問題行動でしたので、「ああ、自分の問題行動にはメリットがあったのか。自分なりに必死に生きようとしていたのだな。」と短絡的にとらえるのはあまりにも被害者の方に失礼ですが、一方で、自分自身の不可解な行動が自制できない理由が見つかった気がしました。

また、現代を生きる苦痛を「説明可能な苦痛」にするために性に耽溺していたのかもしれません。例え方が適切かわからないのですが、”心のリストカット”だったのではないかと思っています。

つまり、自己治療仮説に即して考えれば、性依存の問題行動は

  • 欲に負けた行動

ではなくて、

  • 困難や苦悩を抱えた自分にとって、一時的であれ、安らぎをもたらしてくれた行動
  • 現代を生きる苦痛を「説明可能な苦痛」で置き換える行為

だったのではないかという解釈です。

そう考えることによって、依存症治療への取り組み方が180度変わりました。

リフレーミングが起きたのです

それからは、依存症に対する見方が全く変わりました。

自分の依存症に対してもそうですが、他人の依存症に対する見方も変わり、「この人は、依存症から何を得ていたんだろう?」という風に考えるようになりました。

依存症治療のとらえ方も変化しました。

どう問題行動を我慢するかではなくて、

問題行動をせずに、どう安らぎを得るか、どう苦痛を減らすか

という観点で依存症治療をとらえることになりました。

そこから、自分のなかで治療がスタートした感じがします。

みなさんも、依存症や依存症治療のとらえかたは様々だと思います。

是非色々な本を読んだりして、リフレーミングをしてみてください。

きっと、治療に納得して取り組めたり、治療効果が高まったりすると思います。

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