「浮気された苦しみ」とどう向き合うか

スポンサーリンク

罠2:被害者ポジション

被害者ポジションは何がいけないのでしょうか。

それは、主体性がないということです。

パートナーに浮気をされた➡怒る

というのは、主体性がありません。反応的といってもいいでしょう。

被害者として自分をとらえてしまうと、辛いです。

関係を継続しようとしているのに、怒っていては面倒です。

それに気が付くことができれば、「被害者ポジション」は自分にとって得がないという考えに至ることができるはずなのです。主体的な人間であれば、自分の考え方をコントロールすることで、自分が楽になるようにできるのです。それが自分の感情に責任を持つということなのです。

パートナーに浮気をされた➡怒る

というのは、

雨が降っている➡怒る

というのとたいして変わりません。

雨が降っているという変えられない状況に対して、反応的に怒るのか、主体的に対応して楽になれるような考え方をするかで、ご本人のストレスはだいぶ異なります。

主体的な対応の例としては、「雨が降っている。読書に最適だ。普段あまり行わない読書に集中してみよう」などという対応もあるでしょう。

くどいようですが、自分が楽な考え方を選んだり、自分にとって都合がよくなるように対応するのが主体性を持つということなのです

「パートナーは依存症という病気なんだ」と考える方が楽になる人もいるかもしれません。

「その瞬間には、浮気してしまったパートナーにも(ドーパミンの分泌や自己肯定感の不足を補うなど)何らかのメリットがあったのかもしれない。どんなメリットがあってそのような行動をしてしまったのか聞いてみよう。」というパートナーにも自己愛があるという考え方を採用するのも悪くないと思います。

ぜひ、「こう考えた方が自分が楽になるので、こういう風に考えています」と言えるようになってほしいです。それが、自分の感情に主体性を持つということ、自分の感情に責任を持つということです。そして、主体性を阻む一番の罠が「被害者ポジション」なのです。

補足①~被害者ポジションのメリットとは~

人には優越性を追求するという特性があります。何もできない赤ちゃんの時から、「成長したい」というのは根源的な欲求であり、他者からの称賛は浴びたいと思うのが人間です。

しかし、称賛ポジションにうまく入れないと、人は「被害者ポジション」に入ろうとします。

そもそも、被害者であることを強調するいわゆる”不幸自慢”というのは何のメリットがあるのでしょうか。

それは、悲惨と思われる状況そのものを先鋭化することで、特異な優越感に浸れることです。不幸自慢とは、降りかかった不幸をまるで自慢するように語り、他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても、「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と救いの手をはねのけてしまうことです。詳しくは、以前の記事『自己憐憫』をご参照ください。

こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという1点において人の上に立とうとします。

以上が、被害者ポジション(不幸自慢)のメリットです。

ここまで読めばわかると思いますが、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。つまり、幸せになれないのです。これは非常に恐ろしいことです。

ずっと怒っている人、ずっと文句を言っている人、ずっと不満を言っている人は身の回りにいないですか?

その人たちは、不幸を武器にしているので、幸せになれない人ということなのです。

補足②~悲しみという感情~

悲しみという感情に私は寄り添いたいと思います。

自分が何も悪くないパートナーの浮気に関して、悲しいという感情は自然に沸き起こってくるものです。

ここで言いたいのが、「感情に支配されてしまう」というのは良くないということです。感情は自然に生じるものですが、その感情から結果がすべて決まってしまうわけではありません感情が生じたときに、「じゃあどうするか」を考えるのが感情に支配されない生き方なのです

コメント